神棚の上に「雲」を貼らない方がよい理由【神をあざむくよりもお断りが大事】

こんにちは、タツノトシです。
先祖から四代にわたり、方位の神さまに仕えることを生業としています。

本題ですが、神棚の「雲」は本当に必要でしょうか?

自宅に神さまを奉斎するには、最上階にお祀りするのが理想とされます。その理由は、神より人が上に立つのは恐れ多く、神さまの上を歩くことが無いようにとの敬いの心からです。

しかし、マンションの住む階や家の間取りなど生活する上での都合もあるので、最上階に祀れない方も多いのではないでしょうか。

そのような時に、代替え案として雲の形が彫刻された「雲板」を神棚に設置したり、「雲」「空」「天」などの「雲文字」を天井に貼り付けます。

しかし、これは神さまを騙すようなものじゃないでしょうか?

たとえ形の上で天井に雲を貼ったとしても人が住み、上を歩くのなら偽りです。

雲文字や雲板を天井に貼るよりも、神さまに「生活の上の兼ね合いもあり、神棚の上に人が住みます。ご無礼お粗末お許しください」と断り申すことが大切ではないかと思います。

本記事では、神棚に「雲」を貼らない方が良い理由についてお話いたします。

目次

神棚の「雲」は貼らない方がよい

神棚の上に人が住んだり、歩いたりする場合でも、「雲」「空」「天」などの雲文字は不要です。

「雲」を貼っても人が通るなら嘘になる

「神棚の上に人はいません」という意味で、「雲」を天井に貼り付けたとしても、上の階を人が通るのなら、それは神へ嘘をつくようなものです。

人の子どもすら騙されないような細工で、どうして神が騙せるでしょう。「この氏子は、神を敬う真心から最上階に神を祀っている」と思うはずがありません。

天知る、地知る、我知るというように神さまは、人間の心や行いや都合もよくご存じです。

神様は見ている根拠と具体例【天知る、地知る、我知る】

最上階へ祀るのが難しいのなら、その理由を伝えて「すいません」と神さまにお断り申すのが正直者ではないでしょうか。

見え透いた細工をする氏子と、丁寧にお断りをする氏子。神さまの心にかなうのは、丁寧に断る氏子ではないでしょうか。

神は正直の頭に宿る

ことわざに「神は正直の頭に宿る」とあり、三社の託宣(三社の神名と教えを記した掛け軸)に記される、天照皇大神(アマテラスオオカミ)の教えにも「正直」とあります。

謀計は眼前の利潤たりと雖(いえど)も、必ず神明の罰に当る、正直は一旦の依怙(えこ)に非ずと雖も、終(つひ)には日月の憐れみを蒙る
現代語訳: 謀(はかりごと)を巡らす者は、仮に目先の利益を得られたとしても、後々必ず神が罰を下し、正直者は、一時のひいきは無いとはいえ、最後には天地の神々の恵みを賜るであろう

三社託宣|西野神社社務日誌

かような理由から、神さまをお祀りするにも「正直」が大切だと分かります。

もちろん天井に「雲」を貼るのに、神さまを騙す気なんてみじんもないと思います。しかし、お祀りされる神さまからの視点で考えると、雲は不要だと思います。

「神に上を人が通らしてもらいます」と断るのが正直

結論、神棚が最上階でない場合は、正直に「住居の都合で、人が上になります。ご無礼をお許しください。」と一言お断りをすればよいと思います。

神さまは、上に人が住むとしても、それに腹を立てて咎めたり、ご利益を授けないといったことはありません。祀る氏子の精一杯の気持ちを受け取ってくれるはずです。

わたし自身、神棚を一階にお祀りしておりますが、そのことで咎めを受けたことは一度もありません。

神さまは、形の上で立派に祀られるよりも、氏子の心の正直を受け取るといわれます。

氏子よ、金幣を百本干本立てまつりても、真の心なくては、神は鎮まりまさず。真の信心すれば、金幣一本なくても、たとえ榊葉一枚立て置いても、真心にてまつる時は、かならず神はおわしますぞよ

神棚の天井に「雲文字」を貼るよりも、真心で神を祀り正直にお断りするのが神のみ心にかなうのです。

神信心が形骸化しないために

形骸化(けいがいか)とは、本来の意味や動機が失われ、形だけが残って継承されることです。神信心は、とくに形骸化しやすいのでとりわけ注意が必要です。

例えば、神さまのお祭りの日に参拝者が増えれば、そこに出店がズラリとならぶようになり、神を敬うというより出店の飲み食いと雰囲気を楽しむのがメインになってしまう。

神参りは神を敬う心でありたいものです。

以前、京都の伏見稲荷に参拝したとき、多くの観光客でにぎわっていました。外国人観光客や自撮り棒を持った人が足早に千本鳥居をくぐっています。

そんな中、隅っこにある小さな祠の前でブルーシートを敷いて、その上に正座をして必死に拝んでいる、小さなおばあさんがいたのです。

その拝み方が尊いというか、どのような祈念をしているか分かりませんが、姿を見るだけで神を敬う心が伝わってきたわけです。

一口に参拝といっても神さまの目からごらんになれば様々なのかもしれません。

信仰において形も大事ですが、心が伴ってはじめて神さまのみ心に届くのではないかと思います。

今回は以上でございます。

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