「神社で願い事をしてはいけない」は誤り|神職が日々神へと願う理由

こんにちは、タツノトシです。
先祖から四代にわたり、神へ仕えることを家業としております。

みなさんは神社へ参った際には、神さまへお願い事をされてますか?

私は、365日欠かさずに朝と晩に神さまへとお願い事をしております。

朝起きたらその日のことを願い、夜寝るときには一日のお礼を申して、夜中のことを願って休むのが日課です。

なので、「神社でお願い事をしてはいけないの?」という問いに対して、

わたしは積極的に「神さまへ願い事をするべき」と答えます。

なぜなら、願うことをきっかけに神との縁がより深くなり、結果として恵みを受けるから。また、神は人が利益を受けることを喜び、人の敬いによって神の威徳が増すからです。

神へと願うことは「人も助かり、神も喜び」神人ともに利得があるのです。

人間は神さまの子どもでありますので、子供が親に願い事をするように、人も神さまに願うのが本来のあり方ではないでしょうか。

本記事では、「神社で願い事をしてはいけない」の本当の意味、神さまへ積極的に願ったほうが良い理由について解説いたします。

目次

「神社で願い事をしてはいけない」は誤り

「神社で願い事をしてはいけない」といわれる理由は以下のとおりです。

  • 神社は願うのではなく宣言をすべき
  • 神さまへは願いよりも日々の感謝の気持ちを伝えること
  • 神社は自分自身と向き合う場所
  • 神社とは神さまを畏れ敬うところ
  • 自分のことは願わずに世のため人のためのことを願うべき

これらの言わんとすることは分かるのですが、これを理由に「神社でお願い事をしてはいけない」はちょっと極論だと思います。順々に本当の意味をやんわりと解説します。

神社は願うのではなく宣言すべき

神社とは、願うところではなく宣言するように願うと良いと言われます。

合格祈願に例えれば、「○○大学に受かりますように」と願うよりも、「○○大学に、受かるためにスマホ断ちをして勉強に打ち込みます」と宣言する形で願い。

縁結びを願うには、「良い人とめぐりあえますように」ではなく、「良いご縁がいただけるように、愚痴を慎むことを心得ます」と願うとよいといいます。

たしかに、神に恵みを願うと同時に、願い主が相応の努力をするのは、願い成就のためにも必須です。

農作物をつくるにも、お百姓が種を撒き、天地の恵みで成就するように、神さまの恵みと人の骨折りが合わさって願いが成就します。

神の恵み+人の骨折り=おかげ

なので、神に願えば寝転がっていても空からお金が降ってくるわけではないのです。

「神社では宣言すべき」とは、願うばかりで本人が心を改めたり、行動しないことへの注意喚起ではないでしょうか?

なので、「神社で願い事をしてはいけない」ではなく、「神へ願い、願い主も力を尽くす」が真意です。

神さまへは願いよりも日々の感謝の気持ちを伝えるべき

お礼が足りないのは、無礼と言って、おかげを受け漏らすもとになるといいます。

人間でも都合のよいお願い事ばかりして、お礼を言わない人はだんだんと信頼を失います。それと同じように、神へお願いばかりして、お礼を言わなければよい関係は築けません。

といっても、実感がないのに口先だけで「ありがとうございます」と言うのは、神に嘘をつくようなものです。

なので、真剣に神に願って、自分も力を尽くして、おかげを受けて、そして本心からのお礼を言うのが真ではないでしょうか?

神信心には、段階があります。

問題の解決や欲を満たすため「願う」ことが一番はじめの段階です。そこから一段一段と進んで、ようやくお礼の心が芽生えるのです。

はじめて願う人に「生かされているお礼を言いましょう」「常日頃の感謝の心を伝えましょう」と言えば、聞こえはいいですが、それではなかなか力が入りません。

神に真剣に願って、おかげを受けてのお礼が真であり、口先だけのキレイごとは偽りです。

なので、「神社で願い事をしてはいけない」ではなく、「神へ願い、おかげを受けて、真心からお礼をする」と一つ一つ段階を踏むのが大切ということです。

神社は自分自身と向き合う場所

神社は、願うところではなく、自分自身の心を見つめて、向き合うところと言われます。

心とは「神の恵みの受けもの」であり、心にヒビや穴が空いていてはいくら神が恵んでくださっても、受け漏らしてしまいます。

具体的な例として、お金の問題を願っているけれど、無駄な出費が多く、常日頃から「お金がない」と不足ばかり言っており、これといった打開策を考えず、行動もせずにいる人。

これでは神が恵みたくても(すでに恵んでいても)、自分の心が神の邪魔をしているような状態です。いくら一生懸命になって神さまへ願ってもこれではおかげは受け難いです。

神社とは、そのような心の不浄を見つけ、自分の心を清める決断をする場所でもあります。

なので、「神社で願い事をしてはいけない」と思うのではなく、神に願いつつ、自分の心の足りない部分を見つけることに意識を向けるとよいでしょう。

神社とは神さまを畏れ敬うところ

祝詞を奏上する時に「掛けまくも畏き」(声に出すのもおそれおおいですが…)という言葉が用いられます。

畏き(かしこき)・畏れ(おそれ)とは、神の広大な力を前に頭が下がり張り詰めるような気持ち。人間は大自然を目の前にすると、その広大さや偉大さに自ずとこのような心を抱きます。

神さまへは、このような「有難くも恐れ多き心」で敬い接することで、神の威が増します。

そして、人は神を敬うことで神徳(神の恵み)を受けるのです。

神は人の敬いによりて威を増し、人は神の徳によって運を添う

御成敗式目

なので、神への敬いの心をもって、願うことが大切です。「敬う」といっても、具体的にどうすればいいのか?

毎朝お供えをするのもよし、その神さまの縁日にお参りするのよし、作法を丁寧にするのもまたよいでしょう。

しかし、自分の答えを模索し、自分自身の腹から答えを練り出すこと自体が「本当の敬い」であると思います。

自分のことは願わずに世のため人のためのことを願うべき

わが身が助かれば今度は人の力になりたいと思うのが人間です。神信心をしていると世のため、人のため、神のためといった願いがすこしずつ出てきます。

しかし、大変な難儀をかかえた人やすぐにでも神の恵みを受けたい人は、まずは自分のことを願ってよいのです。

自分が泳げないと溺れている人を助けることはできないように、神さまのおかげを受けて信じる心が強くならなければ、世の為、人の為のことを本気で願うことはむつかしいのです。

聖人君子を思い描き「自分を捨てて人を願うべきだ」という考えは誤りです。

人もわが身もみな尊い人であり、人を助けるために自分を粗末にすることを美徳にしてはいけません。

「神」も「人」も「我が身」もみな繁昌して、立ち行くのが一番よいのです。

税金でもお金を多く持つ人が、たくさん納税して人を助けているように、まず自分や家族のことを神さまに願って自身がおかげを受けて、後に人を助けるのが理想ではないでしょうか。

なので、「神社でお願い事をしてはいけない」ではなく、人のことを願い、また自分のことを願うのがよいです。

神社ではむしろ積極的に願い事をするべき理由

神さまへ積極的に願うべき理由は、神のおかげを受けて、物事は成就するからです。

例えば、子どもを産むのは人間が出産しますが、神の恵みがなければ成就しません。

子どもは人間が産むように見えますが、人知れず10月10日のあいだ母親の胎内で子どもが育ち、出産準備が整ってから産気づき、赤ちゃんが生まれたらすぐに母乳が出て、子どもをかわいいと思う心になる。

これら全て神の恵みであります。

人間が育てて産みなすようで、神さまの陰ながらの恵みによって人は生まれるのです。

神の恵みは肉眼では見えないので、陰ながらの力添えをむかしから「御蔭(おかげ)」といいます。

人の働きは目に見える「陽」、神の恵みは目に見えない「陰」。陰と陽が一致して、願いは成就します。

人間の骨折りだけでも、神の恵みだけでも成就しません。

神と人とが互いに協力して良いモノが生みだされるのです。

なので、願い叶うか叶わないかは自分次第という話の以前に、まず、神の「おかげ」を受けなければ成就しようがないのです。

そのため、崇敬する神社へ参った際には、積極的に神に心を向けて願うことをつよくお勧めいたします。

神社での願い事の仕方のポイントまとめ

神さまへ願う上で大切な要点をまとめました。

  • 神への敬いをもって願う
  • 神に身の上のことを一心に願う
  • 願うだけでなく人事を尽くす
  • 自分の心の不成就の原因を取り払う
  • おかげを受けたら真心からの感謝を伝える
  • 人の助かりを願う

これから神仏へ願おうとしている方は以下の記事もおすすめです。

神社でお願いをしてはいけないことはありません。むしろ積極的に願った方が神との縁は深くなります。

今回は以上でございます。

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